amanda's diary

私って何なんでしょうの日記

文字も悪くない

大事な話しをするときは、なるべく顔を合わせて話す、無理なら電話、メールはなるべく避ける、というのが今までの考えでした。
なぜなら、言葉以外の部分で伝えていることが結構重要だから。
メールは特に、感情が現れにくく相手がどういう温度で言っている言葉なのかがわかりづらい。

だけど。

前の記事でも書いた、友人とのやりとりは全てメール。
顔を合わせて話すと、なんとなくごまかしてしまって、ちょっと拗ねてみたりして、相手もいちいち気にしすぎなんだから!みたいな感じで流してきたりで、全く解決しませんでした。
解決しないどころか、向き合わない感じがさらに状況を悪化させました。
ところがメールだと、私の考えが伝わったのです。

どうも私の場合、ほんとうに大切なことを伝えるときは文章にするのが良いのだと、今回の一件で気がつきました。
私は自分の文章にコンプレックスがあります。あまり好きではないのです。
いままでなぜ好きではないのか、よくわからずにいました。

でも、今回のことで理解しました。
良くも悪くも、自分が丸出しになるからだと。
鏡をみて、あれこんなブサイクだったっけみたいな感じ。
こんなに太ってないはずなのに、みたいな。
自分の文章が嫌いなのは、自分を丸ごと全部、突きつけられるからでした。

すごい小物なところとか、偉そうな感じとか、すぐいじける、ケチ、いちいち細かい、理屈っぽいとか、もう見たくない部分が文の端々に丸出しな訳です。
そりゃ見たくないよね。
でもこのところは、そんなに嫌でもなくなってました。
その辺の嫌いな自分も、意識するようになってきたからだと思います。
残念だけど、そんな部分も私にはあるのです。

でも、その中でも考え方で変えられるところは変えようとしてみる。
調子が悪かったりするとすぐ戻ってしまうこともあるけど、それでも「あ、今もどっちゃった」と理解できる。これすごく大事。

今、大きな課題だと思っているのは、「人を蔑む心」が自分にもまだあるということ。
そしてこれを越えることは、すごく大事であるということ。
これができないから、今があるということ。

傲慢なのは一番良くない。言葉にすると安っぽいけど。
実は傲慢でない人はそんなに見たことがない。大体の人が傲慢で尊大。
ほんとうにすごいなあ、と思った人は驚くくらい等身大の自分を持っていて、謙虚だ。
それが全てを物語っていると思う。

大どんでん返し

このところ人間関係のゴタゴタが続いてるのが、記事の内容からもなんとなく伝わっていたかと思いますが、いろいろありつつも以前よりは成長したおかげで、騒ぐこともなく日々淡々と過ごしておりました。
しかしその意識下では、白鳥が水面下で水を掻くがごとく、考える日々。
というのも、一番信頼していた友人ともうまくいかなくなっていたからです。自分と似たような位置で相談できる人であり、わかりやすく鏡となってくれる人でもあったため、ここ半年くらいは目隠しされているような感覚。いや辛かった。

その人とも、どうにか理解し合おうといろいろやってみたのですが、全然だめで状況は悪くなる一方。
そしてさらに相手を追い込んで、とうとう本音を吐かせたのです。

これで終わった、関係性は破壊されたなあと落ち込みつつ、なんとなくその人から卒業できたようなほっとした感じ。
自分が思っていたとおりだったということがわかって、区切りがついたということなのでしょう。
相手からきたなかなか酷い内容のメールに対して、もう一度丁寧に自分の思うところを伝えました。それから今まで相手がしてくれたことに対する感謝も。
そして、過去記事でも書きましたがフロムの「愛するということ」という本を薦めました。もともと相手にあげたいと思っていた本だったからです。この人ならきっとこの内容をわかってくれるだろうと。
これでこの人とは、完全に道が分かれたな、という寂しいけれど晴れ晴れしたような、不思議な気持ちでおりました。


そしたら。

数日してから、相手から謝罪のメールがきたのです。私の言っていたことがようやく理解できたと。
なぜそのような考えに至ったかというと、フロムの本の内容を読んだのがきっかけで。
やっぱりすごい本でした。私が今まで読んだ本の中で最高の良書なだけあります。
またそれを理解してくれた友人も、すごいなあと思います。

だからと言って、結構限度を超えて傷つけられた部分もあり、すぐに元どおりとはいかないのですが、それでも相手を理解し、自分を理解しようとする努力をやめてはならないのだと痛感しました。
フロムが書いていたとおりです。

私がしたことは愛なのかなんなのかわかりませんが、相手と真剣に向き合うことは何よりも大切なことで、逃げてはいけないこと。
逃げた瞬間から、表面的な愛に成り下がるのです。

逃げるのは厄介

私は諦めが悪い。

気分もなかなか変えられない。

昔よりだいぶマシにはなったけど、頭のバックグラウンドの片隅で小さく、でもずーーーっと考えてたりする。

 

こだわりが強いというのは、いい面もあり悪い面もあり、でもどちらもあるから成立する訳で。

 

でもそういう時にすごい特効薬がある。

「時間」

いつかは忘れる。ずっと一生思い続けることはできない。

それできる人は既にどこかが壊れている、というか多分日常生活に支障をきたすはず。

 

昔、こんなに苦しいのなら頭が狂ってしまえばいいのにと心底願うくらい、悩んだことがあった。けれど、ギリギリのところで頭は絶対に狂いそうもなく途方に暮れた。

今は丈夫な精神でよかったなあと心底思う。狂ってたらもっと辛いことが待ってたんじゃないかと思うから。だって狂うって終わりのない逃げだから。

 

自分はどこにも行けない。いつもここにいる。

そして自分も状況もずっと留まることはない。

逃げるという選択肢がないだけ。逃げたらどこかで帳尻を合わせなきゃならなくなる。

たぶんそんな時、頭が狂えばいいと思うような出来事がくる。

嘘つきの中で生きること

自分を含め、大なり小なり嘘をついているのが大多数だと思いますが、幸せに生きる近道は「自分に嘘をつかない」ことなわけで。

巷ではだいぶそういうことを言ってる思想が氾濫してますが、なんだか好き放題に生きるみたいな意味に捉えられてることも多そうです。

 

どちらにしても「自覚を持つ」のが大事で、自覚のないことは本心でも嘘でも非常に良くない。「考えていない」ことの証明になるから。

 

でも自分の本心て掴みづらい、いろんな価値観や雑音にかき消されて見えない。

でも周りからは一目瞭然だったり。

 

自分のことは見えない、とかいうけれど、そんなことはないんだ。

やれてることが本心で、やれないことが本心でないこと。

 

前の記事でも書いたけど、嘘の社交辞令は良くない状況をもたらすけれど、自覚している社交辞令は悪い結果にはならない。

この人とは深く関わりたくないけれど、いい距離感は保ちたいというのが社交辞令。

それを「人から嫌われたくない」という不安から使うと、最初の「深く関わりたくない」の部分にまで踏み込むことになって破綻する。

この場合は、「深く関わりたくない」を自覚するべきだったのに、「嫌われたくない」の不安が勝ってしまった不幸。

 

だから根本的な矛盾や無自覚は修正していかないと、不安はなくならず真の安定は保てず、どこにいっても自分一人では生きていけない感じがするわけです。

 

原因は自分にあって、他人じゃない。

嫌われたくないのは悪いことじゃないけど、嫌われるのも悪いことじゃない。

嫌われたくなかったら、自分も心から人に興味を持つこと。小手先のテクニックで表面だけ真似するから、破綻するんだ。

 

ああ、だから私も気がつかなかったのかな?ハウツー本は人を不幸にする副作用の強い悪書だね。

いちいちムカつく事柄

自分がうっとなる事って、ウィークポイントだったりするわけだけど、今まで好意的に見ていた人の言動にいやな部分が増えてきた。

あまりにうんざりして、前の記事で上げた「無視」を発動することしばしば。

 

なんでだろうなあ、私はほんと嫌なやつだな、と思ったわけですが、つらつらと考えるとウィークポイントというか、昔の自分て正にこんなんだったんじゃないかと思い至りました。

 

超怖い。ひどい。そりゃいろいろダメだわ、うまくいかないわ。

背筋が寒くなりました。

 

なかなかそこまで自分を離して考えることは難しいものです。

「他人は鏡」とは良く言ったもので、客観視する非常に重要なツールであると再認識した次第です。

 

心にひっかかることは、全部自分が持っているもの。

ムカつくってことは未だに受け入れられてないってこと。こういうの「統合できてない」っていうんでしょうか。

 

自立のひとつが、この「バラバラになってる自分集め」なんだと思います。

そして集めるたび、ひとつ強くなれるのです。

 

いらない社交辞令

この人、すごく私のことを見てくれている、という人がいた。

何かにつけて褒めてくれたり、細かいことに気がついていたり、わざわざこちらの発信したことを話題にしたり。

仲良くなりたいという信号に聞こえた。

 

でもまあ、本当のところは単なる社交辞令で。

なんかこちらが怖かったみたいというか、押さえどころの要注意人物と思われてたみたいです。

 

そうなんじゃないかと、ちょくちょく確かめてたんだけど、その度に違う、という態度だったもんで、じゃあこれでどうだ、とどんどんハードル上げていったら、ギブアップしたようで、いきなり無視された。

 

ここで無視って、非常に関係性悪くなるし、その前にうまくかわすチャンスはいくらでもあって、なぜここで?最悪のタイミングじゃん?しかも無視って超こども?

 

と、私は非常に混乱したわけですが、まあよくわからないけどそれは相手の問題。例えばできるだけすべての人間から嫌われたくないとか、人の頼みは断れないとか、そんな感じ?

 

そんなことやる人だと思っておらず、信用しちゃってアレコレ恥ずかしいなあとか、また人の本質に気づけなかったなあとかしばし落ち込みました。

 

わからないのはそこまでして嘘ついて辛くないわけなかろうに、ということ。

私はあんまり関わりたくない人と話したり関わる時間なんて1秒だって持ちたくないしそもそも我慢できない。

そこまでして我慢する場合ってものすごく自分にメリットがあるとかそれを越えたところになんか目標があるとかそのくらいの理由がないと無理。

 

だけど今回の関係性には、そこまでの強制力があったとは思えない。

だから余計によくわからない、わからない人のことは怖くなる。

 

多分だけど、その人が人を信用してないんだろう。

そして人と深く関係性を持てないでいる。

そこに悩みつつも、プライドが高くて自分を変えられず、尊大さと自信のなさが混在する矛盾の人となる。

そして限界まで自分に嘘をつくことが自分にも相手にもどれだけ良くない影響を与えるかということに無自覚だ。

これをやりすぎると、どんどん自分自身から遠ざかって自分を見失う。超怖い副作用。

 

あれ、だいたいの人はこんなもんか。

 

しかし関係性がうまく作れず、残念だった。

そもそも関わっちゃいけない相手・その2だったことに、薄々気がついてたけど確信が持てるまで信じきれなかった自分にも残念だ。

 

次はうまくやろう。

というのを生きている間、繰り返すのが進化するってことなんだろうな。

ずるい人が嫌い

なんでかって、考え方が子供すぎるから。

バレてないわけないし、バレてもいいやと思ってるのもバカにしてるし、そもそも自分しか見てないっていう。

 

でもそういう人がいるのも事実だし、私が存在しているということは、そういう人たちも存在しているからであり、彼らがいなくなればいいと思うことは、自分もいなくなるのと同じことで。

 

前はそんなとき、私の考え方が幼いなと思って、悪く考えちゃいけない、と思ってた。

最近はそういう人がいる、というのは事実として受け止めつつ、でも嫌なやつに無理していい態度を取らなくてもいいと思うようになった。

 

もちろん最低限の大人としての態度はとるけど、ムカついた時は無視してもいいし無反応でスルーしてもいいし返事しなくたっていい。

社交辞令はいい関係の人に適度にやるものだ。

 

コミュニケーションを諦めるのではなく、そもそも関わっちゃいけない相手だったということで、最初の対応を間違えたね、ということ。次は頑張ろう。