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amanda's diary

私って何なんでしょうの日記

そんなわけない

「凹んだら誰かが空気を入れてくれる」という車内広告を見た。

 

「誰か」は何もできない。

何かをするのは自分だ。

 

「誰かがなんとかしてくれる」のは、本気で相手に委ねた時。

 

凹んで誰かに慰められたって、また同じようなことが起きるはず。だって自分で乗り越えてないから。

無理ならあきらめる。どうでもよくなれば凹まない。

 

もう誰かにそういうことで甘えるのはやめよう。

一人でがんばらなくていいところは気持ちよく甘えよう。

頼るところが逆だよ。

 

 

普通ですごい人たち

最近プライベートで知りあった方々が、その業界では一流の方達で、関連するイベントに誘われて行ってきた。

 

まあとにかく華やかな世界。でもここにいるためにどれだけの努力をしてきたんだろう。最前線にい続けるというのは、並大抵の努力ではないはず。あと才能も熱意もたくさん。

 

そしてそういう人たちは、いたって普通の人だ。常識があって、謙虚で、真面目。皆そう言う。私が見ていても、肩書きを知らなければ拍子抜けするくらいごく普通の人たち。

 

偉そうとか、凄そうに見せている人っていうのは、目的がそこであって、それ以上のものはないのかもしれない。

 

ごく普通のすごい人たちは、ある信念を持って淡々と真面目にきっちりやってきただけ、なのかもしれない。それ自体が普通はなかなかできないことなんだろうけど。

 

依存される感覚

仲良くしている人が、私を参考にしているのはいいんだけど、何だか丸コピー感があって、正直ちょっと気持ち悪くなってきた。

 

よく洋服とか持ち物を真似される、なんていうのは聞くけど、やっていることとか目線を丸ごと真似されると、もうちょっと自分で消化してくれ、と思ってしまう。

しかもどうやら、影響されている自覚がないっぽい。

 

こういう盲目感てちょっと重いよね。悪気なくても。

と、思っていたけど最近連絡しづらくなっている大切な友人も、私に似たような気持ちを持っているのかも、と思い至った。

 

以前、依存されるようで苦しいと言われたことがある。自分にそんなつもりはないのでそれは向こうの問題だろうと思っていた。

私は人を自分より上に見ないのだけど(だから尊敬とかリスペクトというのは好きじゃない)、大事な人のことは丸ごと肯定する。なんでもOK、だいすき!みたいな。

 

それってちょっと重いよね、人にされたら苦しくなりそう。

もうちょっと疑問に思ったりして欲しいし、何でもかんでも肯定しなくてもいいじゃんて思うよね。

 

依存なのかと言われると、私のはやはりちょっと違うと思うのだけど「自分で考えていない感じ」は相手を遠ざけるし、ちゃんと見ている人からは相手にされない原因になる。

 

その人は自分が正義と思うことを主張するし、一見クレバーな感じすら漂わせる。けれど言葉の端々に「強い自尊心」を感じる。自分の評価を低く言うのに、高く見積もっていることも言う。ミーハーで目立ちたがりなのに、ミーハーで目立ちたがりなのをバカにする。派手なことを嫌いながら華やかなものに憧れがある。自分の意見があるようでない。でも自分の主張が世界の中心だと思っている。

 

やっぱり矛盾することを出す人はちょっと面倒くさいね。自分の成長を止める一番の原因はこれなんじゃないか。

 

ただ何でも受け止める「母性」てのも、受容と取り込まれる感じが表裏一体で、バランスだなあと思いました。私はもう少し「父性」を鍛えようかな。

 

面白くてやめられないこと

最近はじめた習い事が、面白くてしょうがない。

技術的なものなんだけど、こつこつ積み重ねて、ちょっとずつわかって、上達していく楽しみ。

 

いや、いまこんなことやってる場合じゃないんだけど。でもどうにか時間をやりくりしてやろうとしている。

現実逃避なのかな。

まあとにかくやりたくて仕方ない。

 

こういう「趣味をやって楽しい」のと「やりたいこと」を混同するなと言われたことがあるんだけど、今回も混同してるんだろうか?

以前「好きを仕事にする」的なのが流行ったことがあったけど、それが正に混同してる感じなのかな、と思うんだけど、違いはなんだろう。

 

「好きだから仕事にする」んじゃなくて、「好きである一定の熱意を持って続けられることをやっていたら、いつの間にかそれが仕事になっていた」というのが正しいのかな。

 

目的が「何かを仕事にしたい」なら、求められていることが仕事になっていく。

「好きなことをやりたい」なら、趣味でいい。

 

そういうことだとしたら、今やっていることは好きなことだけど「求められていること」にも役立つかもしれない。

役に立たないかもしれないけど、趣味として続けても楽しい。

 

自分が何を「目的」にしているかを、見極めないからずれるのか。なるほど。

 

自分を知る

カラー診断というものがある。

その人に合う色、というものなんだけど、つい最近まで自分に合う色を全く似合わない色だと思っていた。驚いた。

 

なんかこの色、似合わないと思ってたけど最近好きなんだよね、と選ぶことが続いて、おかしいなと思ったので簡易的に調べてみたら、ちゃんと合う色を選んでいた。

 

要は今までの思い込みが全然的外れだったということなんだけど、それに全く気がつかなかったのが面白い。

 

というのも、自分では色の識別がかなり得意なのと、配色や似合う色に「敏感」だと思っていたから。

どれだけ人は自分のことを客観的に見れていないのかと改めて思った。

ある程度意識していると思っていたのに、これだもの。

 

気がついたのは、自分をちゃんと知ろうとしていて、それが出来始めているからなんじゃないかと思う。これからもっと等身大の自分が見えてくるのかな。

 

それまでの自分は一体何を見ていたのか。見ているようで何も見ていない。

自分にしか興味のない人が多いようだけど、それすら本当に興味を持って見ているのか、何かの恐れで他人から目を逸らしているだけなんじゃないのか。

 

あ、これが統合、ってやつなのかな?

 

恥ずかしいことは悪いことじゃない

だいたいの人は、恥をかくのを嫌がる。

わたしもそうだった。

 

恥をかくのは悪いこと?恥ずかしいって悪い感情?

いいとか悪いとか誰が決めた?

 

まあ、周りに言われてとか「普通は」と言われたとかで(この「普通」ってすごく主観的で全く言い方として適切じゃない)いつの間にかイコールでくっついてしまっただけで、恥ずかしいのは別に悪くないわけです。誰にも迷惑かけないし。

 

恥ずかしいが故にごまかして違う言い方や行動をとることのほうが、よっぽど悪い。自分に嘘つくから。

 

恥ずかしくっても、自分から先にやってみる。

なんでもそう、自分が先。

優しくしてもらいたかったら、自分から優しくする。

仲良くしてほしかったら、自分から近寄る。

 

ちなみに嫌われるのも悪いことじゃない。そういう人もいるってだけ。

自分が損する、この損という気持ちを捨てたらだいぶ自由になる。どうせ回り回って自分に返ってくるから、損も得もないわけです。

出したものだけ、鏡のように返ってくる。自分から出さなかったら永遠に世界は変わらない。

 

損する、された、よりも「自分がどうするか、したいか」だけで考えたら、世界は本当にシンプル。

 

突き詰めると愛、なのです。キモいと言われてもそうなのです。

 

途切れそうで途切れない

ここ数年やり始めたことがあるのですが、もうダメになるだろう、もう続けられなくなるだろうと思ってひたすら受け身でぼんやりしていたら、なぜかギリギリ続いています。

 

相手から話しがこないと続けられないので、途切れたらそこで終わり。

昔はほとんど話しはこず、こちらからお願いしますと言っても特に何もなく、だったのに不思議なもんです。

 

他の道も考えて、いろいろな方向で手を伸ばしているのですが、どれもイマイチ進みません。

 

ひたすら目の前のものにベストを尽くすしかない。

そこでちゃんとやれてたら、次が見えてくる。